罰する

2007年9月4日 思想信条
嫌なことが起こったときの人の反応は2種類
他人を責めるか、自分を責めるか、だ
どちらも責めない、なんていうのは人間にはできない
それは神か仏の特権だろう

どちらがよい、というものではない
ただ2つある、というだけ
ならばどちらかは許すべきではないのか
どちらも許さないのでは
そこから先へ進めないのだから

主観

2006年9月26日 思想信条
今日は少し趣旨を変えて自分の思想信条のような事を書いてみようと思う。でも出来が気に入らなければすぐに消すつもりではある。

「ある人が信用できないのでその人と約束をするのは不安である。」と言う事を主張したら「それは君の主観でしょう。」と言い返された。この場合は『ある人』は誰が見ても信用できないような人物ではないので確かに私の主観である事は間違い無い。そういう意味では指摘は全く持って正しい。問題はその言葉の裏に「だからそれは君が間違っている。」と言ったニュアンスが含まれている事である。

『信用できない』が主観なら『信用できる』もまた主観ではないのだろうか?さらに『ある人』は去年同じ約束をして、それを半分しか果たしていないので『信用できない』とする根拠がないわけでもない。それならば『ある人』が信用できるかどうかは誰が判断したところで結局主観でしかないのではないだろうか?

別に主観的な意見を言われるのが嫌なわけではない。ただ自分は客観的に物事を見ているという姿勢で主観的な事を言われるのが嫌なだけである。客観的に物事を見るには常に「自分は客観的なつもりでもどこかに主観が混ざっているはずである。」という事を覚えている必要があるのではないだろうか。

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